あの時も、そう言ってもらえてたら

   私は逃げ出さなかったのだろうか。

   あの場所に止まれたのだろうか。

   















     C&F















   翼の後ろ姿が見えなくなるまで見送った後、
  
   は一度息を吐いた。

   そして、両頬を叩いた。微かに紅くなる程度だろう。

   しかしその効果は充分で、目が覚めた。頭も冴えてきた。




   「・・・・・・みてろよ、郭さん」




   いつもより数倍低い声でそう呟くと、は近くの水道で顔を洗って

   屋上へと駆け出した。

   その足取りはここに来たときとは違う、とても軽やかだった。

   表情も、活きていた。


   階段が、カウントダウンのようだった。
  
   一階、二階・・・と階を重ねるごとに、心が弾んだ。

   気が引き締まるのがわかって、何だか嬉しかった。



   バン!



   少し派手な音をたてて、は屋上の扉を開けた。

   一斉に視線がこちらにきて、少し恥ずかしかった。   

   
   一馬が少しホッとした顔をして、こちらを見ていた。

   優しいんだな、と思うと同時に、結人が英士に何か言ってるところが目に入る。

   結人の表情は角度的にあまりよく見えなかったが、口の端が上がっていたと思う。

   英士の表情は相変わらずで、あの表情の崩させてやる!と逆に気合が入った。

  
  

   「!戻ってきたんだな」


   

   結人が軽く駆けて近づいてきた。 
   
   蔑むでもない、ファミレスのときと変わらない雰囲気に安堵する。




   「もちろん。これからが本番だから」




   ニッと、は笑顔を返す。

   その笑顔が兄に似ていたことは気のせいにしたい。


   結人は、少し考えるように目を見張った。   

   だが、すぐにいつもの通りに戻り、自分の目を指した。



   「・・・目ぇ、少し腫れてるぜ。メイク直して来いよ」

   「そうする」

   
   
   結人とのやりとりはそれだけだった。

   言われたとおり、メイクをを直してもらうとは影にいた

   監督さんのところへ向かった。 



   「只今戻りました。時間割かせてしまってすみません」

   「君はちゃんと戻ってきたんだね。よかった」

   「・・・どういう意味ですか?」

   「今までああなった人も、逃げた人も多かったんだ。でも君は来た」

   「・・・・・・これから、ですから」



   ぺこりと一回頭を下げると、監督さんが頭を撫でた。

   その手はすごく優しくて、安心した。
 

  


   「じゃあ、再開しよう」





   その監督さんの言葉に、緊張感が戻った。

   英士には視線をやり辛かったが、は英士のほうをきちんと見据え、

   しっかりと視線を合わした。

   怯むことなどせず、臆すこともなく、微かに笑んだ。
 











   もう一度渡された進路の紙。

   それを目を細めて何秒か見つめた。  

   
   別れたくない、あいつと。
  
   これを書いたら、厭なことが現実になる。

   近づいてくる予感が現実に変わる。

   
   一気に眉間に皺がよる。

   はぁ、と溜め息をついて、皺を緩ませ、びりびりと紙を破いた。


   こんなもので左右されるほど、弱い関係なのか?

   こんなことでいなくなるような奴なのか?

   不安が募る。


   表情も自然に切なくなる。だとしたら・・・と考えると

   無意識のうちに涙が一筋流れた。

   演技じゃない。本心からの、本当の涙。


   破いた紙を風に乗せて思いっきり飛ばす。

   灰色の空に融けたそれをみると、すっきりした。
 
   雪のように舞うそれが、いつか消えると思うと気持ちが楽になった。

   自嘲混じりの表情が、気付かないうちに浮かんでいた。




   バンッ!
   



   はぁはぁ、と息を切らした結人が、の元へ駆けてきた。

   額には薄っすらと汗。

   眉間に皺を寄せた結人は、の隣に凭れ掛かった。

 
   どういうことだよ、これ?

    
   そう言いたげな表情。
 
   手には先ほど破った進路の紙の一部分である紙くずが握られていた。
  
   は、あぁ、と首を微かに動かして肯定する。


   どうもこうもないだろ。・・・書けるわけが、無いんだ。 

 
   凭れ掛かっていたフェンスから体を起こし、一歩一歩と

   地面を踏みしめる。下を向いて、自分の足を見る。

   歩いて揺れるたび、涙が、小さな跡を残していく。



   お前はどうせ、俺から離れていくんだろ?



   顔をあげ、結人のほうを向いた瞬間、

   ポトリ、と一粒だけ大粒の涙が落ちた。

   
   それに気付いた結人は、反射的にの体を抱きしめる。

   結人より小さなの体はすっぽりとその腕の中に納まっていた。

   急なことだったので、とても驚く。

   目を見張って結人を見る。

   しかし、その腕は振りほどくことなく、は泣きそうになりながら笑った。

   そして、自分とは違う温かい結人の胸に顔を埋めた。

   そんなを、結人は優しく抱きしめたまま、右手でその黒髪の頭を撫でていた。



   ・・・いくわけないだろ。



   結人は小さくそう呟いたあと、ばかだな・・・と苦笑していた。



   本当だな?


      
   結人の制服を握り締めながら、蚊のなくような声では訊いた。

   あぁ、という言葉の代わりに撫で続けられる頭。   
  
   互いの体温が、とても心地よかった。
   


   そうだ。

   俺たちの心は同じはずだ。

   あいつも同じところに行こうというだろう。

    
   もし、言わなかったとしても。

 
   悲しいのは一緒。
   
   何一つ変わることない関係のままだ。



   ・・・それはにだって同じこと。

   じゃなくなったときでも、の中には確実にいる。

   として出会った人たちに、もう一度笑顔で会えるだろう。

   臆することは無いんだ。


         
   一度築いた関係は、そんなにやわじゃないと信じてるから。


   
 
  
   しばらくそうしていた後、どちらからでもなく、二人は離れた。   

   はもう笑顔だった。

   本当に嬉しそうなその笑顔を、結人は眩しそうに見ていた。

   一瞬、微かに眉間に皺を寄せたのは気のせいではない。

   その表情は、まるで先刻までののようだった。


   
   ・・・いつまでも一緒な。



   くるくると回っては笑った。

   いつまでも一緒だ。やった、いつまでもいられるなんて。約束だ。


   そういわんばかりの表情に、結人は一度口を開く。
 
   だがその口が言葉を発することは無かった。

   何か大切なことを言いたげに口を開いた結人に、は気付いていなかった。

   そこには、二人の笑顔だけがあった。








   「カット!」






   ふぅ、という声があちこちから聞こえた。

   監督さんは満足そうに笑っていた。

   は肩の力を抜いて、結人の元へ歩み寄った。



   「お疲れ様でした?」

   「いーや、まだまだ。お前、よくなったじゃん」

   「・・・こっちもまだまだ」

   「楽しみにしてるぜ」



   にしし、と結人は笑った。

   同時に髪の毛をぐしゃぐしゃにされるくらい撫でられた。

   さっきまでの優しい撫で方とは違かったが、逆にこっちの方が結人らしかった。
 
   
   

   「じゃあ、この調子で続けようか!」



           
   監督さんの明るい声が響く。

   だいたい五段落に分かれているこのプロモも、もう三つ目まで終わった。 
 
   もう少し。しかも物語は急展開・・・というか、佳境だ。



   「ということで、にはここからダッシュしてもらうよ」

   「・・・・・・・え?」

   「だってほら、書いてあるだろう?」

   「・・・本当だ」

   「ここから、スタッフがいる道順通りに走ってほしいんだ」
 
   「全力で、ですよね・・・?」

   「そう、全力猛ダッシュで」



   次のシーンは、いなくなってしまった彼を探し

   家に駆け込むというシーンだ。

   屋上にしても家にしてもよくそんなすんなり借りれるなぁ・・・。

   監督さんの笑顔に苦笑いしかないは、とりあえず

   準備運動として屈伸と伸脚をした。


   全力で走らなきゃいけない。

   そりゃあ、そうか。大事な人がいなくなったんだ。

   自分の足が壊れてもいいから、探し回る・・・か。

   まるで、あの日のようだ。




   「頑張ってね、


   

   その声に軽く頷くと、スタート!という監督さんの合図と同時に

   は屋上から全力で走り出した。

   何か今日は、走ってばかりだ。









   「・・・・・・で、どうなんだよ?英士」
   
   「・・・何が?」

   「のこと。結構気に入ってんだろ、実は」

   「そろそろ認めてやれよ」

   「ほら、一馬もこういってるし!」

   「・・・・・・・・・まだ撮影は終わってないでしょ」

   



   の去った屋上で、のんびり歩き出しながら三人が

   についての会話をしていたなんてことは、当人は知る由も無かった。
 














   勢いよく屋上を飛び出して、階段をおり、学校を飛び出した。

   角ごとにスタッフが立っているので、道はわかった。

   延々とした坂道を下っていく。この主人公には永遠に思えるくらいだろう。


   そして、いくら学校や仕事の時間といえど、人はいるもので。

   なにやってるのかしら、という声と視線は容赦なくを指した。


   ペース配分を考えながら、全力でダッシュする。

   男子の制服はこんなに動きにくいのか。

   スカートだとスパッツを穿いているので、逆に動きやすいのだ。

   何メートル走ったのだろう。500メートルは超えただろうか。

   薄っすらと汗をかいてきたし、息も上がってきた。  
  
   それを軽く拭うと、この家だよ!というスタッフが目に入った。
  
   あまりに全力で走っていたため、演技などしていなかった。


   ぶつかるような勢いで、はその家のインターフォンを鳴らす。

   白い一軒家のその家は人の気配がなかった。


      
   『俺、・・・・・に入るから』



   フラッシュバックする記憶。

   現実にあったものだ。・・・しかも、まだそう経ってない過去。
 
   あの時と重なって、余計焦った。

   さっきのシーンの余裕など、なくなりつつあったが

   頭は意外と落ち着いていた。これは、演技。現実じゃないんだ。

 
   インターフォンを鳴らしても誰も出ない。

   ガンガンとドアを叩くも反応が無いので、ドアノブを回した。

   すると、カギが開いていた。

   
   流れ込むようにして中に入る。

   リビング、キッチン、客間。

   一階の全ての部屋を覗いたが、そこには何一つ残ってなかった。

   呆然とする。

   ふらついた足で、最後の希望に縋るように階段をのぼった。

   二階はあいつの部屋だ。

   お願いだ・・・!目を瞑り、ドアを開く。恐る恐る目を開けると
  
   そこには、一階と同様何もなかった。     

   よく遊びにいった部屋。部屋に張られたポスター。

   床に散乱していた漫画や教科書、MDやCD。よく片付けていた。

   汚かったけれど、暖かい空間だった。


   でもそれが今は・・・何もなかった。ただ部屋があるだけだ。


  
   嘘だろ・・・・っ。


   
   はその場にへたり込んだ。

   床の感触は、天井の白さは、窓から見える景色は

   何一つ変わっていないのに。

   涙がこみ上げた。大粒の涙は瞳の止まることなどできずに、

   ぼろぼろと膝に、床に落ちてしみを作った。

   考えることなどできなかった。

   頭が何かをするのを拒否していた。ただ、泣くことしかできなかった。
  
   顔がぐしゃぐしゃになるのも、鼻水がたれても啜るだけで、気になどせずに

   ただ、ただ、悲しみに任せて泣いた。



   「厭だぁ・・・厭だ・・・・・っ!」



   開けっ放しのドアから、微かに風が吹いた。

   涙と汗で張り付いた髪が揺れ、涼しかった。

   カサ、という音と共に、の足元に紙があった。

   白いメモ用紙だった。

   開くと、その中には何年間も見てきた、見慣れた字。

 
   

   『バイバイ』




   たった、それだけだった。

   もっということあるだろ?そう怒鳴りつけたかった。

   しかしその対象になるべき奴はもういない。

   止めどなく流れ続ける涙の一粒が、ボトリと落ちて

   その手紙にも染みを作った。


   大声で転げ笑って、二人でゲームしたけどあいつは凄く強くて負け続きで。

   誕生日やクリスマスにはケーキも食べた。勉強もした。
   
   ハロウィンや、バレンタイン。殆どをこの部屋ですごしていた。




   「おいて・・・かないで・・・ぇ・・・・っ」




   でも今はもう、全てが無になった・・・・・・。





   
    
   「はい、カットー!」






   その声と共には後ろに倒れこんだ。

   涙は、演技ではないので、とても恥ずかしかった。

   まるであの日をもう一度やっているようで、悲しかった。




   「・・・・・・・これ」

   「真田、さん?」

   「ほら、早く拭けよ」
  
   「ありがとう、ございます・・・」
  
       

   いつからいたのだろう。  
     
   三人がいつの間にか後ろにたっていた。 
 
   の肩口から差し出された、ハンカチ。

   その手の主である一馬は、恥ずかしそうにしていた。



   「・・・俺のことも、一馬でいいから」

   「え、はい。いいんですか?」

   「あ、あぁ。凄い泣いてたし・・・」

   「心配してくれたんだ?大丈夫だよ、もう」



   にし、とからかうような笑みを浮かべると、一馬の頬が赤くなった。
 
   可愛い人だな・・・。そして純粋だ、珍しい。



   「・・・それにしたら、随分本気の演技だったよな」

   「・・・・・・っ。・・・そう、だった?」

   
   
   深刻そうな、いや、ただの直感かもしれないが

   その一馬の疑問は、にとっては核心を突いていた。

   

   はただ、苦笑して誤魔化すしかなかった。

   全てを過去にするには、まだ時間が足りない。