入り口から二番目の窓側の席。
   そこにはいつも決まった人がいた。
   彼は私のバイトが終わるのを待って、一緒に帰っていた。
   









    指定席はもう、









   窓際の席をみて、微笑む。
   視線を下げて作業に戻ると、声がかけられる。



   「彼氏、ですか」
   「うん。いいでしょ」
   「・・・別に」


  
   えへへ、と笑いながらコーヒーを淹れる
   
   好きな人が同じ空間にいるってだけで、こんなにも幸せだなんて。
   仕事をしている間、ずっと彼氏の姿をみられるのも嬉しい。
   優しいし大人っぽいし本当にいい人だ。そんな喜びをいつも、噛みしめる。 
    
  

   「手、止まってますよー」



   その横でぼーっとカップを拭きながらそういったのは、一つ年下の平馬くん。
   サッカーのクラブチームに入っていて練習が忙しいという彼は
   あまりシフトに入っていないけれど、とよく一緒になる。
   いや、がいるときには必ずいる。
   その関係で指導係として一緒にいたのもあり、仲良くなった。・・・なった、よね?
   
   店長の親戚だという平馬はよくつかめないテンポで生きていて
   あまりに独特すぎてついていけないこともあるけれど
   は平馬のもつ雰囲気が心地よくて好きだった。

   

   「先輩なら、もっといい男いるだろうに」 
   「嬉しい事いってくれるじゃん。でも、いい男ねぇ」



   そんなのいないわよ、とは笑った。

   コーヒーの香りが鼻孔をくすぐる。  
   こじんまりとした店内は外界から切り離されたようにゆっくりと
   時が流れていて、その中に手で挽くコーヒーの香りが絶えることなくずっと在った。
   


   「お待たせいたしました」


 
   淹れたコーヒーを自分で彼氏のもとへと持っていく。
   大人びて、落ち着いた物腰の彼はこの店の常連だった。
   いつも同じブレンドを頼む彼は、目の前に出されたカップを見て微笑った。


 
   「サンキュ」
   

 
   香りを堪能して、彼は一口飲んだ。
   おいしいよとまた笑みを深めて、へと視線をやった。



   どき、とした。



   その視線が、笑顔が、少し違うように見えたのだ。



   「ほら、俺からも差し入れ」
   「ありがと」


   
   一口サイズのチョコを手渡される。
   いつもこうして差し入れをくれるのだ。飴やチョコ、飲み物など
   の好きなものを必ず一つ。

   昨日は抹茶、今日は・・・バナナ味。
   
   あれ、と思ってもう一度チョコをみる。派手なバナナのかかれた包み。
   いつも、の好きなものをくれるのに。
   


   「どうした?」
   「ううん。なんでもないよ。ありがとうね」

   
 
   もやもやする。なんだろう、この違和感は。
   ポケットに入れたチョコが気になって仕方がない。

   へと視線をやる前に、テーブルの上にある携帯をみたのは気のせい
   だろうか。いつも、そんなところに携帯を置いていただろうか。
   バナナが嫌いなこと、言っていなかっただろうか。

   なんだか、嫌な予感がしたけれど、はそれを押し込めて
   彼氏に向かって笑顔を作った。


   ・・・・・・気のせい、だよ、ね。
   
   


   平馬に呼ばれてまたはカウンターへと戻る。
   常連ばかりだから、まだ平馬は客に出すコーヒーを淹れられない。
   皆舌が肥えているからだ。

   湯を注ぎながら、は胸に残る違和感について考えていた。
   すると、平馬が後ろから寄りかかってきた。
   の肩に頭を預けて、ついでに体重もかけてくる。
     

   「ちょっと、何、重いんだけどっ」
   「んー・・・腹、減ったー。先ぱーい、なんか」
   「食べ物はあげません」
   「えー」
   「仕事中にあげないようにいわれてるの!」
   「飢え死にする」
   「するか!ハムの切れ端さっきつまみ食いしてたくせに」
   「捨てるの勿体無いじゃん」
   「そういう問題じゃ、って、こら!」


   いつの間に!
   静止するの声など聞きもせずに、ごそごそと
   平馬はのエプロンのポケットに手を突っ込んで漁っていた。
   くすぐったい。  
  
   
   「あ、チョコ発見」
   「ちょっと、こら、勝手に!」
   「いただきまーす」

 
   包みを持った手を叩くが平馬は気にせず、くるりと背を向けて
   ぽいとチョコを口の中にいれた。
   


   「あー!また食べたわねっ」
   「ごちそうさま。先輩、バナナ嫌いなんだし、いいじゃん」

      

   いつも差し入れられる彼氏からの食べ物は、二週間ほど前から
   の胃袋には届かない。毎回、平馬に盗られて食べられてしまうのだ。
   ・・・バナナ嫌いって言ったの、よく覚えてるなぁ。


  
   「せっかく彼からなのに・・・」


      
   はぁ、とため息をつく。   
 
          
     
   「・・・だからじゃん」
   「え?」
   「んーん。なんでもないでーす」


   
   じゃあ俺奥行きます、と平馬は軽食を作りに去って行った。
   ゴミ箱に放られた包み紙が、やけに目に付いた。











   *










   数日後。珍しく平馬がいない日だった。
   バイトからあがって、は外にいた。
   立ち尽くして、どれくらい経っただろうか。寒さで耳が痛い。
   涙なんかでなかった。でも、そこから動けなかった。



   「別れよう」



   そういわれたのは、今日のこと。
   いつものようにバイトに彼が来て、でもその隣には女の子がいて。
   手を繋いで、いた。
   常連の女の子だった。いつもバナナケーキとかバナナチョコパフェを頼む子。

   の顔をみて、少し狼狽して、でも女の子の手にぎゅっと力が
   こめられると息を吐いて、言った。


   なにかがすとん、と落ちる感覚がした。


   その後のことはほとんど覚えていない。
   ほとんど働かない思考でコーヒーを淹れ、いつも通りに仕事をこなして
   着替えて、ようやく現実を脳が受け入れた。
   あぁ、フラれたんだ、と。

   

   「・・・あれ、先輩」



   白々しい言葉が後ろからかけられる。
   平馬君の声。いつものように少し間延びした、眠そうな声。

   

   「お疲れ様でーす」
   「・・・う、ん」   
   


   顔を向けないで、声だけかろうじて出した。
   足音が聞こえ、平馬が近づいてくるのがわかる。




   「てか、遅すぎ」
   



   俺、ずっと待ってたんだけど。



   「・・・いや、平馬君、今日入ってないよね」
   「うん。でも、待ってた。あそこでずっと」



   帰路へ出る角を指しながら、平馬は先輩、と呼んだ。 
   は視線を上げた。
       
   

   「寒くて凍え死ぬかと思った・・・」
   


   練習帰りなのだろうとわかる服装はとても温かそうで、説得力がない。
   でも平馬は「うー、寒・・・」とぼやいて、の頭にぽんと手を乗せた。
   


   「何で、いるの」
   「待ってたっていってるじゃん」
   「いつも私は、」
   「一緒に帰ろ」

   
   
   言葉を遮って、平馬はの腕を引いた。
   早く、と急かされて歩き出した。ゆっくりと。



   「俺のあんまん分けてあげるから、早く」
   「・・・そ、それ絶対冷めてる、でしょ」
   「うん」 



   が歩き出したのをみて、平馬は腕を放した。 
   
   彼はいつも一緒に帰るはずの人のことを聞かなかった。

   いや、わかっていたのだ。    

   肺に入る空気の冷たさに、鼻がつんとした。
   平馬は何も言わなかった。
   話しかけることもなく、ただの隣を歩いていた。
   ときどき「あ、星」とか「よ、猫。また太ったなお前」などと
   独り言や動物に声をかけていたけど。  
   平馬が通るたびに近所の猫が鳴き、すりよってくるので
   思わず笑みがこぼれた。



   「・・・いつ、から、知ってたの」   



   隠されていたことに、腹は立たなかった。




   「二週間ちょい前だっけ。先輩がいない日に俺が入っちゃった日」
   


   そっか、と呟いては空を見上げた。
   星が綺麗な夜だ。街灯が少ないこの道は暗い分よくみえる。
  

  

   「・・・・・・。だからチョコ食べてやったの。優しいでしょ、俺」




   そういえば、平馬が差し入れを悉く食べてしまうようになったのは
   ちょうどその頃からだった。
   


   「先輩。家、どこ?このままだと俺んちついちゃうよ」
   「あ、そこ」



   視線を戻すと、ちょうど1ブロック先に自分の家が見えた。
   ゆっくりした足取りだったのに、いつの間にこんなに歩いていたらしい。



   「・・・近いね」
   「だから選んだんだもん」
   「俺んち、橋渡って二つ目左入ったとこだから」
   「え、うん?」
   「泣きたくなったら、来ていいよ」
   「・・・・ばーか」



   年下に泣きつくほどじゃないわ、とは笑った。

   あぁ、そうだ。
   なんとなく気づいていたんだ。少しずつ、薄れていく気持ち。
   ちょっとずつ増えていった違和感を押し込んで、忘れようとしていた。
   なにも知らないフリをしていれば、このままでいられると思っていた。
   それにちょっとずつ、自分が傷付いているのにも気づかずに。

   だから平馬君は私にほんの少しずつ、教えてくれていたんだ。

   言葉じゃ何もいわないけれど。意識しなきゃ全然気づかないけれど。
   少しずつ彼との繋がりを切ってくれてたのかな。
   私につく傷が少しでも軽くなるように。・・・なんて、まさかね。


   そんなことを考えていると、家の前についた頃には
   なんだか気分がすっきりしていた。あのまま一人で立ち尽くしていたら
   こんな風にはなれなかっただろう。
   


   「ありがとう、平馬君」



   自然にお礼の言葉が出た。ちゃんと、笑っていえた。

  

   「また明日ね、先輩」
   


   ほら、と同時にあんまんを口に突っ込まれる。
   驚いて変な声が出た。



   「明日も入ってるでしょ?」
   「う、うん」
   


   どうして彼が私のシフトを知っているのだろうと 
   今更ながら疑問に思った。     
   
  



   「他の奴と帰んないでね」

      
 


   冷えたあんこの味が、口いっぱいに広がる。   

   
 


   「俺と帰ればいいの、俺と」




   じゃあね、と平馬は帰ろうとする。
   思わずその裾を掴んでしまったは、内心動揺しながら問うた。



   「・・・他の日はどうしたらいいのよ」   
   「だって俺、のいない日は入ってないし」
   「・・・・・・え」
   「ようやく、手ぇ出せる」


   
   そう小さく紡がれた言葉。 
   その真意を知るのは、額にやわらかい感触が降ってきてからだった。

   バイト中、いつもの席にはもう誰もいないけど
   代わりに隣にはいつも年下の彼。