時は昭和の初め頃。
まだ、英士が夜桜蝶屋という芸者置屋にいたときの話。
近づくほどに遠く
綺麗に晴れた晴天。
まだやっと厳しい冬が終わった頃で、肌寒さは拭えない。
芸者置屋の裏側に隠れるようにひっそりと建つ
緑に囲まれた家に、一人の少年が緑に溶け込むように入っていく。
大きな、手入れを殆どしていない木々に囲まれたその家は
よく探さないと人目にはつかない。
「おはよう、。いい天気だね」
少年は芸者小屋の裏口から出てきて、そのすぐ傍にある縁側に上った。
そして、スッと障子を開ける。
目の前にいたのは、八畳ほどの畳の部屋に上半身裸で寝そべる客と
その客の背にざくざくと刺青を彫っている、一人の少女。
少女の年齢は、少年と同じくらいだ。
「いてててて・・・っ」
「大人しくしていて下さい、巧く彫れませんよ?」
少女の名前は。
この家の家主であり、刺青を彫るのを生業とする彫師。
刺青は明治の頃に政府によって厳しく禁じられていたが、
刺青を入れようという人は多いらしい。
実際見たことも多くあるし、この家にもよく客がきている。
結構繁盛しているようだ。
「・・・・・・あれ、邪魔だった?」
少年こと英士が誰に言うでもなく呟くと同時、は客の肩を軽く叩き
にっこりと笑った。
「はい、もう終わりましたよ」
そういうと客は英士が入ってきた反対側の、玄関から帰っていった。
どうやら、二人とも英士の存在に気付かなかったようだ。
客を見送った後、英士の存在に気付くと凛は喜びの声を上げる。
「・・・英士!いつの間に来てたの」
「先程からいたんだけどね。随分集中してたみたいだし」
「あはは、お得意さんだからね。・・・はい、お茶」
英士は部屋の中に入っていく。
はひとつ伸びをすると英士と自分の分のお茶を縁側に置いた。
英士は目を細めてかすかに微笑む。
「毎日飽きずによく来るねぇ。大変だろうに」
「別に平気。ちょっと、息抜きだよ」
お茶を一口飲んでから、ふぅ、と息を吐く。
英士は、この家の表にある芸者置屋の芸妓。
人気が高くて、いつ一本になってもおかしくない半玉だった。
そして、と英士は親友だ。
少なくとも、はそう信じている。
「このお茶頂き物なんだけど・・・美味しいね」
「また客から貰ったの?」
「くれるんだからしょうがないでしょう?頂くわよもちろん」
「・・・確かに美味しいからいいけどね」
半玉といってももう数年前から特別に座敷に出ている
英士は、芸者という身分。
いつか高い値で金持ちの男色家か女性に買われる運命だ。
は、それをさせたくなかった。
親友である英士に、そんな思いをさせたくなかった。
この家にいるときのように、ずっと笑って幸せに生きてほしかった。
そのためには、英士の身請けを阻止して、
自分が英士を買うために日々こうして働いている。
「ねぇ、」
「なぁに?お茶のおかわりならそこに」
「違う。・・・俺に、刺青彫ってよ」
「駄目・・・!英士の綺麗な肌に傷、つけたくない」
その代わりのように、は自分の手に彫ってある刺青をみせる。
英士は少し不満そうに口を閉ざしたが、の気付かないところで息を吐き
半ば諦めたかのようにそれで了承した。
「・・・・・・・綺麗だね」
目を細めて、愛しそうに、眩しそうに刺青を見て微笑む英士が
はとても好きだった。
この幸せを、時間を、いつまでも続けたかった。
でも、知っているんだ。そんなに愚かじゃない。
この世界で望むものが手に入る可能性がどれだけ低いかなんて。
手を伸ばすほど、近づいたと思うほど
願うものは遠ざかっていく。
「あっ、もうきてたのか!!英士!」
「・・・結人」
心地よい静けさを打ち破るように響く声。
同時に悲しい気持ちも飛んだようで、救われた気がした。
声の主は緑の上から顔を出し、小走りでこちらに向かってきた。
クルクルとした茶髪の少年はと英士の親友。
近所に住んでいて、よく遊びに来る。
「久しぶりだなぁ、英士」
「・・・一昨日会ったばかりでしょ。ボケてるの?」
「まじめな顔で返すなよな!・・・、俺にもお茶くれよ」
結人は英士の隣に座る。
ぶわっと風が吹いて、まるで結人を歓迎するかのようだった。
なんとなく縁側の傍の地面に刺した風車が、少しだけ廻った。
「ったく、結人は・・・。はい、お茶」
「サンキュ。なぁ、茶菓子ないわけ?」
「あぁっ?茶菓子なんてあんたに出せるほど無いわよ」
結人は甘いものが大好きだ。
そんな結人に出していたら大変なことになる。
「・・・ケチぃ」
「何か文句あるわけッ?だったら自分で持って来て下さいな」
「えー」
頬を膨らませる結人とそれを睨みつけるの間に
まぁ、と仲裁が入る。
「ほら、俺が持ってきたから」
「お!英士、さすが!」
「英士・・・。うちは来客用なのよ、わかった結人?」
「ふごー!」
食べるか喋るかどちらかにしなよ、と英士の冷ややかなツッコミが入る。
いつもの会話。
もう・・・と呆れるをみて、幸せそうに茶菓子を頬張る結人を見て
英士は思わず微笑んだ。
クス、といった感じに近いその笑みを二人は見逃さない。
二人の願いは、想いは同じ。
幸せな今を続けたい。この幸せを、そのまま。
『・・・・・・絶対、英士を身請けしてみせるから』
あのとき誓った想いは二人とも、だ。
英士のために。英士の幸せのために。
仲良くなり、幸せな時間が流れて
幸せに近づくたび、それは逃げていく。
過酷な現実によって。冷たい現実によって。
カラカラ・・・と、風車が微かな音を立てて廻った。
05.8.24