俺にとって、夢であり現であるこの夜の世界。
宵の桜も美しくは映らなかった。
紙一重の恋路
心地よく響く三味線の音。
隣の部屋から響く、店一番の歌い手である乙姐さんの歌声。
指名する芸者がただの女なら、友人ではなかったら
この場に赴くことも楽しい夜の夢だっただろう。
「よっ。元気か?」
「まぁね。あれ、一馬は?」
「一馬なら、顔赤くして帰ってったぜ」
「・・・菊さんがいってたのは一馬のことか」
どこで逢おうが変わらず笑ってくれる友人に、英士は笑みを零した。
芸者置屋にいる男なんて珍しいけれど、そんなことで隔たりを作るなんて
愚かな真似はしない。
美しく着飾った女たちの中で独り遠くを見つめる黒髪。一目で惹かれていた。
それがどのような感情なのかは幼心にはわからなかったけれど、
漠然とは理解していた。尊いものだが、決して望まれないものだと。
「あいつ、また蝶の方に引きずり込まれたんだよ」
「菊さんたち、ちょうど暇だったんだね・・・」
「可愛いー!なんて大人気。くそっ、得な奴」
手土産を渡すと英士はそれを部屋の隅へと置いた。
廊下から聞こえる半玉の微かな足音と鈴の音が、何を持ってきたかを告げる。
その香りがいつもと違っていて、結人は眉をひそめた。
酒の香り。どうやら英士にはこのよく出来た仮面さえ通じないようだ。
普段あまり呑ませないくせに、今日に限って二本もある。
吐かせる気満々じゃねぇか、くそ。
口の端がひきつるのが否応なくわかった。
「いい加減、慣れてもいいんじゃねぇかと思う」
「まぁ、性格的にもそれ以外にも、蝶は一馬にはまだ早いかな」
「何か母親みたいだぞ、それ」
「まさにそんな気分だから」
じゃあ俺が父親か!と笑い飛ばす。
酒を一口流しこむと、とぼけた笑みから一転して
乾いた笑みが広がってきたのを誤魔化すように、後ろへ倒れこむ。
特注の堤燈の香りに、自分に、吐き気がした。
「英士」
「ん?」
酒を注ぐ音が静かに響く。
「・・・桜って人の命日、今日なんだろ」
酒瓶が派手な音を立てて、英士の指からすべり落ちた。
白磁が薄暗い畳の上を転がるのが、やけに鮮明に見えた。
「っ誰に、聞いたの」
「」
一口しか呑んでいないのに、頭が廻る。
視界が歪むのは、吐き気がする現実からだろうか。
英士に何かあるのは気付いていた。
それでも、俺は全てを知りたいとは思わなかった。
全ては英士自身が乗り越え、話すことだと。
そう心の中でずっと紡いでいたから。
そうすることで、自分を抑えていたかった。
身売りなんて珍しくないけれど、そのせいでついた傷を
なぜ教えてくれなかったのか。
頭に血を上げさせるには、それだけで充分すぎた。
俺だけ何も知らず、笑って。
苦しんでいるなんて思わず、幾年もの日々を過ごしていたなんて。
以前、英士の側にいた桜という芸者。
その狂喜と愛情。朽ちていく様。
幼い頃英士は、夜毎その名を口にしていた。
『綺麗な桜だけを、覚えてるから・・・っ』
美しかった貴女を。
漆黒の髪が映えた白い肌を。
花の精と呼ばれたあなたの全てを。
血に染められ変わり果てた姿は、
狂喜に犯され正気を失った胡乱な眼差しは、
幽鬼のような青白い肌で彷徨う姿は、
全部桜じゃない、見なかったこととして大人になる。
母のような穏やかな微笑も愛情も、俺だけが知っているものだから。
異臭に満ちた狂喜の塊がこの瞼に焼き付いていても
俺は汚れることの無い永遠を彼女に与えよう。
「なぁ・・・八重」
「!っなんで、」
「全部知ってる。なぁ、八重姫、俺はそんなに頼りねぇかよ?」
「違う!」
「違わないんだよ、八重」
「呼ぶな!」
「何度でも呼んでやろうか?・・・俺は今、虫の居所が悪いんだ」
生き地獄のように桜を忘れられず、見えない明日を生きていくのか。
だからお前はを欲すのか。
過去に捕らわれることのない俺じゃなく、闇を共有して照らすを。
普段声を荒げることのない英士の叫び。やめろ、やめろ結人と繰り返す。
噛み締めている下唇が目に入る。表情が辛さを物語っていた。
充分すぎるほど心が伝わる。
「・・・っ悪い、言葉が過ぎた」
謝っても、どちらの顔にも笑みは浮かばない。
貼り付けることなど容易いと思っていた、あの仮面が。
心の奥で、軋む音がする。
ごめん、と英士が伏目がちに小さく言葉を紡いだ。
違う。欲しいのは、そんな言葉じゃない。
に向けられるあの特質な笑みから伝わる感情が
欲しくてたまらないんだ。
ずっとずっと、隠しているそれを。
俺も、持っているから。
英士だって、とうにそれぞれの想いに気付いているくせに。
俺の想いだってわかっているくせに。
あえてなんの反応もしない。これは、拒絶だ。
お前は何も言わず、ただ知らないふりをして終わらせるつもりなのか。
「・・・の来る座敷はね、明るすぎて、厭」
「・・・・・・、俺の来る座敷は?」
近づいていた英士の腕をやんわりと掴んで起き上がる。
変わらず英士の体温は冷ややかだった。視線を捕らえる。逃がさない。
自分の手がやけに熱を持って、英士の肌に吸い付く。
脆そうに見えて丈夫で、今にも崩れそうなのに永久を思わせる
英士は消えてしまいそうで恐い。
「同じくらい、厭。今にも喰われそうで」
ふん、と鼻で笑う英士。
心なんて読まれている。冷ややかな瞳の奥にあった熱は消えていた。
砂が零れ落ちるかの如く、掴んでいた腕が逃げられた。
「・・・喰ってやる」
「ご自由に?」
逃げられた腕が無性に悔しくなってきて、結人は再び
英士の両腕を掴んでそのまま押し倒す。
微かな堤燈の灯りがかろうじて顔だけを照らす。
組み敷いているのに、ちっとも手に入れた気がしない。
思わず舌打ちをする。
据え膳喰わぬは・・・といくら思っても、想いの方が上で。
このまま続きが出来るほど幼ければ、
若さ故の甘さに酔えれば、どれほど楽か。
しかし自分はもうそんなに若くなければ、
英士を簡単に手放せるほど大人でもないのだ。
桜模様の鮮やかな女の着物を身に纏い、微かに花の香りをさせ、
紅を引いた双眸が俺を見つめ、紅い唇が名を紡ぐ。
「結人・・・」
溢れ出す想いが身体を動かす前に、そのままの体勢で英士の肩口に
頭だけ凭れ掛かった。
体温を感じながらも、近くて遠い。
以前なら、ここで痕をつけるくらいしていたけれど
今はもう出来ない。
この許されぬ恋の欠片を心の奥へと大切に閉じ込めて。
何重にも扉をして、何百だって鍵をかけよう。
無かったことには出来ないけれど、自分の命と代えることなど出来ないけれど。
同じ未来を歩むお前たちを見守って、共に笑いたいから。
英士の身売りまであと半年を切った今になって、
ようやく出せた俺のこたえ。
「・・・っ俺がお前を、護ってやるぜ」
結人の癖毛を弄りながら浮かべた英士の微笑は、肯定にも否定にも
どちらにもつかぬ心に見えた。
言葉に出したらならない、俺の想い。
全部、今日に置いていこう。
身を裂くような、心の一部を切り離す感覚をこの苦しみを
一生忘れることなく、今日から生きていこう。
英士を護ると願うのは、大切な友人の為ということにしておいて欲しい。
誰が泣くのも、悲しむのも、苦しむのも厭だ。
特別な感情を差し置いてでも、俺はずっと皆で笑っていたいと願うから。
それが、俺の恋の行く末。
06.5.27