満足そうに笑う客。
一馬は、口を挟めなかった。
目の前にあるのは、絶対的な力関係。
商品である芸妓を繋ぎとめるには、金しかないのだ。
格差が広がるこの世界で、下克上はありえない。
すべてを決めるのはもう力ではない。
暴力や戦力まで、もうすべては金で構成されているのだから。
足掻いて、もがいて、叫んでも、ただそれだけしかできない。
それが、自分が負う枷。
「・・・ッ・・・英士・・・」
英士の幸せを命を賭して望む自分の姉。
もうすぐだよ、とは言っていた。
もう少しで英士は自由になると。
月明かりではなく太陽の下で笑って心開けると。
なのに。
知らせなきゃいけない。
この、最悪の結末を。
「ちょっと、よろしいですか」
息を切らせて、叫ばれた大きな声。
それは、間違うことない、ものだった。
「・・・ッ」
衣は乱れ、髪はほどけていた。
それでもは輝いていた。爛々と燃えるような双眸が
客を射る。
その後ろには、同じく息を切らし、苦悶の表情を浮かべる
結人の姿があった。
一馬は、泣きそうになった。
「・・・えぇ、いいでしょう」
「一馬、奥の部屋借りるよ」
静かな、威圧感のあるの言葉に一馬はただ
あぁ、と頷くしか出来なかった。
しかし、はどんな手を使って止めるのだろうか。
金はまだ貯まっていないはずだ。
それに、本来英士は見受けはできない年齢である。
五千圓という値段だからこそ、主人も譲る気になっただけだ。
それでも、一馬も結人も願う。
無力な自分に唇を噛み締めながら。
女のに縋るしかない現在に絶望しながら。
「頼むぜ、・・・」
英士が買われないことを。が食い止めると信じて。
昔、の部屋であった角部屋で二人は向かい合って
座った。
連れて帰れるはずの芸妓の身請けを邪魔され、心底不快で
あろうにも関わらず、この異人の客は微笑みを崩さなかった。
相手は金持ち。
どうしたらいいか。考えろ、何事も臆するな。
すべてを投げ打ってでもいい。英士を、助ける方法を。
あと少しだけで自分が英士を買える。
その時間稼ぎでもいいから。
「・・・あなたが、英士を買うときいたのですが」
「えぇ。この人形のような徒花を、国へ連れて行きたくてね」
八重桜の意味を持つ英士の源氏名。
咲いてもすぐに散ってしまう桜の花の儚さを、よく理解している。
流暢な日本語が、優しいはずの口調が気持ち悪い。
執拗にからみつき、触れた部分を鈍らせていくような毒。
表情は笑んでいるが、客の瞳は一度も笑っていなかった。
護らなきゃ。
あたしが、ここに存在する意味を。
あたしが手にした、責を。
呪われた過去の、捨てた力で。
絶対。
吐き気と、苛立ちと、混乱が頭を巡る。
思い出したくもない。捨てた過去。微笑んでいた彼ら。
彼らのとがは誰も粛清しない。ただ心に巣食って空虚を生み出すだけ。
不本意ではあったが、英士を護れるのなら存分に使おうではないか。
紙と筆を手に取った。
筆を滑らせる。身体に染み付いた、動作。
物心つく頃から知っている、そのすべてを託す。
着色など必要ない。
手を動かすだけで、命が、生まれる。
英士も、一馬も、結人も、誰も知らない私。
「・・・これで、手を引いていただけませんか」
「この日本画は・・・ッ」
「見紛うはずないと思いますが」
客は、言葉を紡ぐことの出来ないまま絵を見つめた。
幾度となく見てきた画風。筆遣い。
欺瞞ではなく自分は多くの本物をみて、集めてきた。
その中で、喉から手が出るほどほしいと願っていた。
それが、今手元にある。
客は、ゆっくりと息を吐いた。
「いいでしょう」
二人は店へと戻った。
少し残念そうな表情で出てきた客と疲れた顔のをみて
一馬と結人は安堵の息を漏らす。
主人は、何気なくその意味を知り、夜桜蝶屋へ帰っていった。
「君はいったい、」
何者なんだ、という客の言葉は続かなかった。
はゆっくり一度瞬きをして、答えた。
「私はただの『しでのたをさ』・・・ホトトギスですよ」
客は面食らった様子で、言葉の意味を解釈しかねていた。
しかし、すぐに答えに到ったようで
それじゃあね、と客は微笑んで帰っていった。
『立ちかへりあはれとぞ思ふよそにても
人にこころをおきつ白波』
後にへこの客から届いた手紙にはこう書いてあった。
07.12.18