「・・・うちに上がって、ゆっくり話しましょうか」
ふふ、と口元にだけ笑みを浮かべる。
男のいった遊女は先代の『菫』のことであった。
六年前に変わった制度を、彼は知らないのだろう。
同時に消された、触れてはならない過去のことも。
きれいな笑みを浮かべているが冷ややかなの瞳に、男は
震え上がって首を横に振った。
「」
見かねて一馬が口を挟む。
これではどちらが悪党かわかったものではない。
「国警、呼ぶか」
「そうね・・・」
「私は決して怪しい者じゃないんだ!」
叫ぶように男は否定した。
一馬がじろ、と男を睨む。
「じゃあ、何してたんだよ」
「というか、菫姐さんに手出してたじゃないの」
の呟きに、男は口ごもった。
「私は、人を探して・・・」
そのとき、は男の顔をはじめてちゃんと見た。はっとする。
この男の尋ね人は、私だ・・・。
年をとって、脂肪がつき気が付かなかったが、その丸く大きな鼻と
薄い唇はあの頃のままであった。
一馬は苛立ったように口を開く。
「探すって、いったい誰を、!」
ぶわ、と強い風が吹いた。
顔が切れるかと思うくらい冷たく、強い。
その風圧での髪を結っていた髪紐がするりと解けた。
自由に風に舞ったその漆黒を見て、男は叫ぶ。
「あ、あんた・・・!」
伏せると影ができるほど、長い睫毛。
日本人には珍しい色素の薄く、光の加減で白目が蒼くなる大きな瞳。
あどけない少女から大人の女へと移行する、いや、化けるようなその中途の姿。
瞳の縁にさした、紫を混ぜた紅。
「あんただ!あんた、『忘れ草』だろ?」
すとん、との中で何かが落ちる音がした。
不思議そうな顔をしてをみる一馬の肩をぽん、と叩いて
は男に背を向けた。
「一馬、こいつ気狂ってるわ。警察、早く呼んで。早く」
「え、おぅ・・・」
の低い声に含まれる気迫に押されながら、一馬は電話のある
居間へ、の家へと走っていった。
それを確認して、は男へと向き直る。
静かに、しかし奥底には業火が燃えるような声音で、
何もかも諦めたかのような瞳で、男を射る。
「もう、『忘れ草』は死んだのよ」
「・・・・・・」
そう、六年前。
「私はただの『しでのたをさ』になったの」
男の胸倉をぐい、と引き寄せる。
唄うように美しい声、微笑めばすべての男が夢を見る。
あの頃と変わっていない私。
それでも、
「もう二度と、その名で呼ぶんじゃない」
忘れ草はもういない。
のその美しさと、気迫と、冷たすぎる瞳に
男は小刻みに何度も頷いて声にならない悲鳴と共に
停めていた車へと逃げ去った。
ふぅ、と息を吐く。
菫姐さんがいるのを、すっかり忘れていた。
目が合って、は苦笑した。
「姐さん、誰にもいわないでね」
菫姐さんは今いる遊女の中では古株だ。
すべてを知っているわけではないが、だいたいは知っている。
それに、菫姉さんの代ならば、まだ噂も残っていたであろう。
菫姐さんはこくり、と頷いた。
「・・・えぇ」
私は結局、逃げ続けているだけだ。
英士を救けるという、重く愛しい鎖に甘んじて生きているだけ。
いつか錆びて使えなくなるであろうその鎖がなくなったら
私は何のために生きればいいかさえわからないのだから。
くるり、と踵を返して、はいつもの明るい調子で
一馬の名前を呼んだ。
「もう警察いらないやー」
え、と受話器を片手に慌てる一馬に笑って、
巽銀行の植野っていっといてーとは暢気に一馬の差し入れた
大福にかぶりついた。
何気なく開けた、小包。
その中には、一つの簪が入っていた。
少し古びてはいるが見るからに高価な、赤みがかった橙の花が
ついている。その花びらの一枚は壊れていた。
捨ててきた過去が今更になって追いかけてくる。
あの頃にはもう、戻らない。
あの人は私に警告をしているのであろう。
なんて残酷な人。なんて優しい人。
庭には、露草とりんどうが落ち葉の隙間からその色を輝かせている。
もうすぐ来る冬も、山茶花が彩やかに色づけてくれるだろう。
長い月日で色褪せた風車は、確実に過ぎていく時間を知っていた。
の右目から、涙が一筋流れた。
「」
はっとして、振り返る。
簪に集中していて、一馬の疑問に満ちた視線に気が付かないでいた。
一馬は一呼吸置いて、ゆっくりと口を開いた。
なぁ、と。
「お前はいったい何者だったんだ?」
ついに、一馬は一歩踏み出してしまった。
は静かに微笑んだ。
表情を隠すのには、もう慣れすぎていた。
08.08.16