六年の歳月は、長かったか短かったか。

   愛された人形には九十九神が宿るなど、誰が信じるものか。

   それでも歳月は、平等に優しく、厳しい。

   愛なんて幻想を共に唄うのは、誰。
 










      甘く切なく、短く長い














   木枯らしが吹く中、寝間着だけで庭に立つ。

   寒さが肌にぴりりと痛い。葉も花も枯れ、昨日集めた落ち葉だけがある庭は

   あまりに味気なく、頼りない。 
 
   あぁ、雪が降りそうな空。重い雲が空を覆って、なんだか低い。 


   一馬や結人に話したのは、全てじゃないけれど。想いに偽りはなかった。

   私は、人形。ユンの考えていることなんてわかるのに。

   考えたくない。信じたくない。ただ、それだけ。

   頭が鈍く痛む。   




   「だって私は、ユンがいなきゃ生きられない・・・」




   だから、英士を救うの。

   そうしたらきっと、私にも価値が。なにもない、ただの人形に成り下がった私にも、何かが。

   何かが変わる、気がして。 


   『忘れ草』の歌は、もう財をなせるほどの価値がある。

   唄えば早い。一度歌えば、もうそれだけで英士を買えるだろう。

   どんなに高くふっかけようとも、あの廓での自分の値段を一番知っているのは、だ。
 

   しかし、そうしたら永遠にユンには逢えないのではないか。
  
   それだけが不安なのだ。ユンは忘れ草を逃がした。

   『忘れ草』を殺し、『しでのたをさ』へと育て上げたのには理由があるのだろう。

   それを読み違えれば、ユンは人形としてすら愛でず、を捨てるだろう。

   ユンへの感情は一体何か、整理がついているのに逃げ回った私が悪いのだ。

   己を偽りすぎて慣れてしまった私の心も、そろそろ戻ってこなければ。

   駆け引きを間違えれば、なにも残らない。
  


   そしてなにより、私の賭けも泡沫に消える。  
 


   あとひと月もないというのに、私は今更何をやっているのだろう。

   きっとユンは私がこうも悩んでいるのを楽しんでいる。

   きっと愉しげにあの涼やかな瞳を細め、香の中で酒宴でも開いているのだ。

   彼は国へ帰ってなどいない。英士の身をいつ攫おうか、私たちがもがく姿を高みから見物している。
      
   手紙は、また来たのだ。




   「・・・誰」




   わずかだが、家を覆う木々が揺れた音がして、は外を睨み付ける。

   よほど慌てているのだろう、草履を置いていきそうな急いた足取りで乙姐さんが入ってきた。




   「どうしたの、乙姐さん」

   「八重が!八重が、身請けされるよ」




   信じられない、という表情で、乙姐さんが言葉を紡ぐ。

   なにより英士を可愛がり、実の弟のように思っている人だ。
      
   は静かに一つ息を吐き、問う。
 



   「誰、に」

   「椎名様」

   「っ」



 
   ついに、ついにここまできてしまった。

   目を逸らしていても、迫る問題が。ずっとずっと、逃げていても、追いかけてくる過去が。

   期限は本当にもうすぐそこにいたのだ。倒すまで、いつまでも居続ける死神のように。

   足元から崩していく、妖のように。 
  



   「・・・ねぇ、乙姐さん」
  


  
   一体、何が『正解』なのだろう。

   私はいつまで、人形でいるのが正しいのだろう。
 
   そして私は、一体『何』なのだろう。





 
   「もう忘れたいのに、その過去があるから、私は生きていられるの。でも厭なの。私じゃないの。

    なのにそいつがいる限り、苦しくて、死んでしまいたいの」






   どうしたら、苦しまずにすむの?
  
   いつまで経っても『私』から抜け出せず、『忘れ草』からも逃げられない。

   ようやく『しでのたをさ』となり、淡い自由を手に入れたつもりでいたけれど。

   過去は私を解放せず、どこまでも、私を追い立てる。

   死での道すら、私は自由になれないなんて。
  





   「・・・そいつも、アンタだと認めちまえばいい」






   どんな厭な姿でも、認めたくなくても、そいつに全部負わせてアンタが綺麗だと言い張るなんて

   莫迦がすることだ。




   「そう、ね」

   「どんな姿だって、さんはさんでしょう」

   


   ざぁ、と風が強く吹いた。枯葉が一気に舞い上がる。

   乾燥した空は、薄い色ながら、気持ちいいくらい澄んでいた。

   肺が凍てつく空気をいっきに吸って、は言う。





   「結人を呼んでくれるかな、乙姐さん」

  



   その口元には、不敵な笑み。 












 




  


   日が落ちた。薄く浮かぶ月は、刃のように鋭い。

   廓の灯りが燈り始め、禿が外で客を誘う歌が聞こえだす。

   頭上で小さく吐かれた息を合図に、結人が顔を上げる。




   「よし、これでいいだろう」

   「ありがとう。綺麗?」

   「俺がやったんだ、当たり前だろう」

   「ふふ。一馬には内緒ね」

   「それは無理だ。だってこの香、一馬がくれたんだぜ。簪も、直したのはあいつ」
  



   ふふ、と笑みが零れた。あぁ、愉しくて仕方ない。

   腹はくくった。もう、何も恐れてなんてやらないわ。

   だって私は・・・・・・!   

 





   「さぁ、結人。私から目を離さないでね」






 

  
   ベベン、ベン。

   夜桜蝶屋では英士を身請けするという客が、最期にと盛大に宴をしていた。

   英士は舞うことも歌うこともせず、三味線を弾く禿を気にせず、ただ胡弓を鳴らす。

   胡弓は英士の心から憂いだけを美しく響かせてくれる。

   阿古屋じゃないのよ、となら笑うだろうか。


   目は伏したまま、口は微笑を浮かべつつわからないように唇を噛みつける。

   この世界の条約なんて、こんなもんだ。

   金、力、地位。そんなものには逆らえない。
 
   すべてをひっくり返すような才も芸も、英士にはないのだ。


   隣に座る、代理で寄越したというこの男の主が話通りまともな人間であると信じたい。

   人間を金で買うような奴は、すでにまともだと思えないが。


   よく日に焼け、浅黒い肌をしたこの男は自分で開いたというのに、あまり英士には興味がないようだ。
  
   杯を傾けながら外を眺めるばかりで、英士を見やることもない。
 
   気を抜くと苛立ちが外に出てしまいそうで、自分が厭になる。
  



   ふ、と。

   そこで急に違う三味線の音が入ってきた。

   今まで弾いていた禿は手を止め、何事かと目をしばかせている。

   音と共に奥の襖が開き、艶やかな紅の遊女が入ってくる。豪華な打掛が鮮やかだ。


   扇で顔を隠しながら、その奥で歌が始まる。
    
     
  





   声、が。 








   音が溢れ、身体中に響く。

   美しく、のびやかで、圧倒的な歌声はその場の音を全て奪って、支配する。

  
   しゃらん、と橙の花の簪が揺れる。

  
   扇がまるで蝶のように動き、纏う布が風に躍る花弁のように揺れ、優雅な動作で舞う女は

   人には思えぬほど美しい。
 

   なによりも歌が絶えず、その声がこの場を極楽と思わせる。

   心に入り込み響く、不思議な声音であった。
  

   女が一曲を歌い終えても、その場にいた人間は誰も動けない。

   これが、泡沫。これが、本物の浮世。

   ・・・・・・本物の、遊女。



   女は少し笑んで、顔の上半分を扇で隠したまま、すぅと息を吸う。

   次の曲が始まる。三味線を弾いているのは奥に下がった禿だろうか。聴いたことのない音。

   また歌が始まると考えがまとまらなくなる。

   英士もただ、目の前の女の姿を留めようと、じっと見つめていた。
 
  





   「・・・これが、『忘れ草』」







   小さく、隣の男が呟いた。英士の耳には届かない。

   遊女の歌声で溢れたこの場で、男の言葉は誰にも届かなかった。

   
   そのまま続けて数曲歌い終わったあと、女は軽く礼をして、ようやく扇を下した。






   その、顔は。






  
   「宴は終わりよ、椎名さん?」
  






   紫を混ぜた紅。色素の薄い瞳。伏せると影ができるほどの長い睫毛。

   愉しげに微笑む美しい、呪われたかんばせ。







   「今の歌でここの遊女が一年買える。今日この宴、そしてこの八重姫は、私がいただくわ」







   髪の毛一本その先まで、現世のものとは思えない。

   優雅で、高貴な、その女は。舞い降りてきた天女のような遊女は。






   「お代は充分よね、旦那」





 
   その場の誰もが、言葉を失っていた。

   その場の誰もが、知っているはずの女だった。
  
  








   「八重は、私のものよ!」










   旦那に問うて、笑う。高らかに宣言した女の声は、しんと静まる場にきりりと響く。

   放心したまま頷いた旦那は、ただ壊れた人形のように何度も小さく首を縦に振った。
 

   それを見て満足げに笑うと、女は代理の男に近づいていく。

   一歩、一歩。まったく足音も布ずれの音もしない。


   口元に指をあて、囁く。




   「主人に・・・翼に、しっかり伝えてくださいな」




   女、を見つめ返す男の瞳は、愉しげな光がさしていた。

   そんな瞳を無下にし、は英士の手を取って、颯爽と店を出て行った。





   「ちょっと、ねぇ!」

   「さぁって、早く化粧落とすよー」

   「落とすのにも時間かかりそうだなー」

   「結人まで!それに、一馬も!」

   「俺は口伝してくる」

   「一馬、一晩で隣町まで伝えてよ」

   「あぁ!」

   「ばーか、もっと遠くまで行けるだろ!」




   私はもう、逃げてはいけない。

   だって、こんなに、胸が熱い。人形だなんて、どうして思っていたのだろう。

   私はただの傀儡だなんて、どうして信じられたのだろう。

   こんなにも湧き出てくる、溢れ出してたまらない、感情があるというのに。

   この感情が偽りというのなら、それでもいい。

   だってこんなにも、心が震えているのだから。








   ようやく、ようやく。  
  







   「おかえりなさい、英士!」








   化粧を落とし、男の着物をきた英士がいる。

   もう二度と、偽ることも媚を売ることもない。男としての英士が、いる。

  
   英士は小さく息を吐いて、友人をみつめる。

   心から、本当の笑みを浮かべて。涼やかな瞳を嬉しそうに潤ませて。
  




 




   「ただいま」
  

    






  





12.10.27