受け入れたくない。
でも、受け入れなければならない。
その場しのぎ程度の現実逃避なら、あの人も許してくれるだろう。
耳を塞ぐ現実
夜も更けると、この辺りはすっかり静かになる。
月明かりと共に灯篭の明かりがつけられ、暗闇の中に
ぽうっと浮かび上がる。
まるで狐火のようだ、と思った。
暗闇の中から、は小さく下駄の音を鳴らして出てきた。
灯りの燈った店にかかる桜の暖簾をくぐる。
ここ夜桜蝶屋は入り口が二つあり、桜が芸妓、蝶が娼妓と分かれていて
桜のほうで英士は働いている。
扉は静かな音をたてて開いた。
手に持った包みを確認しは店に上がる。
「乙姐さん、いらっしゃるかな?」
「さん!お久しぶりです。ちょっと待って下さいね」
半玉の娘が、パタパタと店の奥に戻っていった。
べべん、と響く三味線の音が心地よい。
外の恐いくらいの静けさと変わって、この店は華やかだ。
「あら、さんじゃない。いらっしゃい」
「乙姐さん、夜ではお久しぶり、かな」
前にここに来たのはいつの事だろう。
何度もきていて、もう常連だったが、最近はあまりきていなかった。
何しろ、一晩芸者を独占するのにはある程度の金が必要になる。
「英士なら空いてるわよ。八重の間にどうぞ」
「よかった。ありがとう」
乙姐さんの後に続き、以前と同じ部屋に向かう。
板の間の廊下が小さく啼いた。
他の座敷からは様々な笑い声と音楽がきこえる。
個人指名の場合、英士は一番奥にある八重桜の柄が鮮やかな
着物が飾ってある部屋となる。
たぶん一番上等な部屋なのだろう。
それが逆に英士の立場を見せつけられるようで、胸が軋む。
トントン、と乙姐さんが襖を叩くと、小さく返事がされ
は中に通される。
ごゆっくり、と乙姐さんは微笑んで去っていった。
彼女も芸妓の身である、客も多い。
「英士、こんばんは」
「いらっしゃい。久しぶりだね」
「そう、だね」
華やかな着物が目に入る。
英士はいつものような男物の物ではなく、やはり
蝶の柄が鮮やかな、女物の着物をきていた。
当然といえば当然の話なのだが、見慣れない。
彼は本当に芸者なのだ。
頭ではわかっていても、ここに来るとそれを
心の内で認めていないのだということが切に感じられる。
笑ったつもりが、苦笑に近くなってしまう。
それを誤魔化すため、は酒を注文した。
「何、酒呑むの?」
「呑みますよ、そりゃあ。せっかく来たんだし」
「後で後悔しても知らないよ」
「・・・普通、芸者さんは勧めると思うんだけど」
「それもそうなんだけどね」
まぁいいや、と英士は蝶のかんざしの音をたてて
立ち上がると、廊下の奥に向かって
お酒、と言った。
そうすると、少しした後に半玉の娘がそれを
部屋の外においておくのだ。
小さく鈴の音を鳴らすのが、その合図。
「いつ見ても、すごい部屋・・・」
「そう?別に他と変わらないでしょ」
「そんなことないよ。この八重桜すごい高価そうだもの」
の家に来ているときと変わらない会話しかできない。
いや、変わらない会話でいいのだけれど。
そう、違和感が拭えないのだ。
かんざしをつけて、化粧をした英士の顔が
変わらないはずなのに違う存在に見える。
だから厭なのだ。他の客といる時間を少しでも減らしたいと
思う反面、英士の芸者としての姿を見ることが堪えられない。
彼は一馬と結人と変わらない、少年なのに。
チリン。
小さく音がなった後、英士はさり気ない仕草で
廊下においてある盆をとる。
がお猪口をもつと、ふっと微笑んで酒を注いだ。
その笑顔が、昼に見るものと違って厭だった。
作った、商売用の笑み。
やめて。お願い、やめて。
頭の中で狂ったように繰り返す。胸が引き裂かれそうだった。
英士は、男だ。
普通の、他の人と変わらないはずの、男の子。
何でこんなことまで覚えたんだろう。
女ならまだしも、男には必要の無いもののはずなのに。
生きる為、に・・・しょうがなく?
頭ではわかっていたはずだった。
でも、何度見ても、この絶望感が失せることは無い。
自分の前でまで、やって欲しくなかった。
客と芸妓。
しっかりと境界線が引いてあるようで、ぞっとした。
ここにきたら、もう自分は客でしかないのだ。
普段どんな風に思っていても、それは意味を成さない。
「あ、焼き鳥と塩辛もとっておいたよ」
「え?」
「どうせ、何も食べないで呑むつもりだろうから」
「・・・よく、おわかりで」
こんな気配りを、他の客にもしているのか。
特別なんてない。平等に、商売として。
考えるだけで、頭がくらくらした。
色を求めて来る、金のある大人たち。
そこにみえるのは人の欲望と虚無感だけ。
何の意味も成さない夜を、英士は一人で過ごすのだろう。
なんて、孤独なんだ。
同情などではない。これは・・・。
「普段はザルかってくらい呑むのに、今日はどうしたの?」
「・・・ん?英士の優しさに感激しちゃって、ね」
が苦笑に近い笑みを浮かべると、英士は何も言わなかった。
べべん、べん。
延々と響く三味線や歌声が現実味を削ぐ。
あぁ、全て夢だったらいいのに。
そう思った瞬間、額に衝撃が走る。
驚いて目を見開き、はその主を見る。
「何、変なこと考えてるわけ」
「別に、何も・・・」
「嘘つくな。の考えてることくらいわかる」
きっと睨みつけられる。
その目は真っ直ぐを見ていた。
客と芸妓としてじゃなく、一人の人間として。
嬉しい反面、複雑だった。
こんなことをしたら、英士が後で後悔するのに。
昼と夜でわざわざ分けているのに、それを崩してしまったら。
「厭だったら、ここに来るな・・・!」
縋りつくような声だった。
拒絶しきれない感情に近いのだろうか。
綺麗な顔が、狂わしげに歪んでいた。
こんなことがしたいわけじゃない。
でも、それ以外が見つからない。するしか、ないのだ。
選択肢が無い人間に、どうしろというのだろう。
英士の声も
他の芸妓の歌声も
客のがめつい笑い声も
響き続ける三味線の音も
何も聞きたくなかった。
こんな心がなければいいのに。
こんな耳がなければいいのに。
自分自身がどうにもならず、は硬く目を瞑り、耳を塞いだ。
そんなことをしても、現実が去ることは無いことを知りながら。
耳を塞ぐのは本当に私の手だろうか。纏わり着く現実に耳が遠くなった。
05.12.3