あぁ、いつからだろう。

   太陽が燦々と照っているにもかかわらず、

   自分の周りだけ、暗く映り始めたのは。










   


     見えない明日














   大判焼きを食べた後、はまた今までのように
  
   女の客だけをとるようになった。

   自然と英士の笑みも戻り、変わらぬ日々を過ごしていた。


   互いがどのような想いを抱いているかを

   共有したつもりで、笑っていた。
 
   笑うしかなかった。私も、英士も。


   女性客に八重桜の刺青を彫った後、ふと思いつき

   は今日貰った饅頭を懐に入れて立ち上がった。

   勢いよく閉めた玄関の音に、庭に居た小鳥が飛び立った。

  


   「・・・先客だ」




   目的地に着くと、はすぐさま座り込んだ。

   可愛い先客は心地よい風を感じながら、を歓迎するように
   
   喉を鳴らした。茶色の猫毛。日陰なので真ん丸の瞳。

   思いついた人物を首を振って払う。

   
   手を伸ばすと、先客こと猫は一瞬身体を強張らせたが

   すぐに目を細める。

   幼い頃には顔や腕など体中を引っ掻かれたが、

   この猫も今ではそのようなことはなくなった。

   甘噛みしたあとに必ずそのざらざらとした舌で舐めてくれる。
 
     

   
   「お前は、何年ここにいるつもりなの?」



   
   裏山の神社の小道を降りたところにある、桜の木。

   その周りだけ、少し空間がある。

   誰かが昔、ここで同じように座っていたのだろう。


   何年に一度か咲かない年がある、気分屋のような老樹は

   ここ数年、蕾はたくさんついているのに、まるで拒むかのように

   花が咲かなかった。

   華々と他の木が色付き誇る中、この木は自分が輝くのを
 
   悪いと思っているのだろうか。


   猫は何も答えない。



   「私の願い事はね、もう少しに見えてちっとも叶わないの」

   「・・・にゃー」

   「皆に急かされて、焦っちゃって、一番大切な人を傷つけた」

   「・・・・・・・・」

   「・・・っもう、わからないよ・・・っ」

   

   如何すれば幸福にできるのかも、自分が如何したかったのかも。



   そう自嘲じみた笑みを浮かべると、痛みが奔った。

   猫が撫で続けていたの指を噛んでいた。

   軽く牙を立てられた。呆然と見つめるしかなかった。

   舐めることなく、猫はをただ見据えていた。


   血が珠になって溢れてくる。
  
   少し痛かったが、それもまた現実味がなかった。

   拭う気すらしない。

   少しずつ少しずつずれてきた歯車。

   初夏が始まるといえど、まだそこまで暖かくないはずなのに

   なぜだか汗が出てきた。

   頭はやけに冴えている。昔に戻ったような感覚が走る。

         


   「でも、私は進むしかないの。
  
    ・・・今年も花が咲かなかったけど、もう一度誓うね」




   血をそのままに、は背を預けていた木に向きなおし

   額をこつりとくっつけた。

   指から飛んだ血が地面の雑草を紅く染める。





   「私が英士を救う。潤慶との、命を賭けた約束を果たすわ」      





   ゆっくりと紡がれた言葉。

   言霊は己の口を離れた瞬間から効力を発揮する。
  
   私の心が砕けそうになるのなら、私は何度だって言おう。

   私を助けてくれた人のために、恩返しのために、
  
   私が“”を捨てて、ただのになった証として。


     
   何処かで、気の早い蝉が鳴いていた。 








 

           

06.1.16