本とコーヒーの香り。
   たくさんの本がぎっしりつまった本棚に挟まれた空間は
   パソコンと膨大な資料と、いつも穏やかな彼の笑顔があった。

   紙が音を吸い取ってしまう研究室の中で、私はひっそりと恋に落ちたのだろう。


 




     心理学のスゝメ






 
   目がしぱしぱしてきた。
   朝からずっと続けているパソコンの作業がそろそろ限界だと体が告げる。
   少しずつ休憩をとっているつもりだが、そんなことでは到底終わらない課題。

   今年の冬にお偉いさんばかりの場で発表しなければならない論文は、私の将来を
   確実にしてくれる大切なものであった。
   ゼミの中で唯一それを任された自分の責任は重く、誇らしい。



   「…にしても無茶あるよなぁ、今夜までに第一次提出って」



   ひとりごちてパソコンに突っ伏す。限界。 

   コーヒーでも飲みたい、と思ったところに控えめなノックとコーヒーの香りが
   を訪ねた。



   「お疲れ、。飲むだろう?」



   穏やかな声でそっと差し出された専用のマグカップを包むようにいただく。


   「ありがとう!もう、終わりがみえなくて」
   「俺に手伝えることがあったら言ってくれよ、今日は暇だし」
   「ううん、悪いからいいよ。さすがにたまのオフに学校くる人に頼めないよ…」
 
 
   ちら、とみた視線の先で残念そうに笑う彼は、プロ選手なのだ。

   渋沢くんの活躍みていたら頑張らなくちゃって思う。私は学業とバイトだけだもの。
   日の丸背負ってなんてこと…とんでもない世界だ。
   だけれども楽に単位をとろうとはせず、ゼミにもきちんと顔を出して課題も自力でやる。
   責任感とかすごいなぁって、本当に思う。

   

   「の今の顔みてたら手伝いたくもなるよ」
 

 
   困ったように笑う渋沢くん。その笑顔が一番好きなんだ。

   心理学科になんでこんなすごい人がいるんだろう、といつも思うけれど
   彼はうーん、といってからいつも「仲間の力になれるかもしれないから」とか
   「コーチになったときにも役立つだろう」とかほかの人がいったら嘘っぽいことを
   さも当然のようにいう。

   そんなところがすごいと素直に思えた。なにでできているんだろう。
 
   いつでも穏やかな笑みを浮かべて、絶妙なタイミングで助けてくれる。
   サッカーをしているときは真剣な顔をして、懸命にプレーをしている。
   すれ違うときに必ず挨拶してくれて、他愛のない話でさえ心地いい。
   私がこうやって論文で籠っているときに必ずコーヒーを差し入れてくれる。
   ファンの人に対してもとても優しく、応対やサービスもいい。
   帰りが遅くなったときは必ず車を出してくれる。

   そんな少しずつの優しさと心遣いに、少しずつ私の心はひきつけられていったんだ。

 
   「私、そんなひどい顔してる?」
   「憔悴してる」
   「やだ、根詰めてるつもりはないんだけどな」
   「朝からやっているんだろう?もう、日もだいぶ落ちたから」
   「え?」


   外をみると自分の中では茜色のはずの空は、藍色になっていた。
   時計をみずに論文と資料を見続けていたせいか。没頭していたのは本当のようだ。
   私の呆然とした表情をみて、渋沢くんがくすりと笑った。
  

   「あとどれくらいなんだ?」
   「えっとね、あと…結論と注釈書き込むだけ、かな」  
   「すごいな!さすがだな」
   「ただ結びの文がなんだかしっくりこなくて…」
   「どれ?」


   渋沢くんがコーヒーを置いて、後ろから覗き込むようにパソコンをみる。
   少し思案した後、あぁ、といって肩のあたりから腕が伸びてきた。



   「ちょっといいかな」
 


   え、という間もなく、渋沢くんの武骨な指がキーボードを叩く。
   膝の上に手を置いていたはそのまま固まる。

   まるで後ろから抱きしめられているような体勢なのだ。

   心臓がうるさいのと、思わず顔が赤くなるのを必死に隠す。
   渋沢くんはそんなつもりじゃないのに、私ばかり意識してしまう。


 

   「これでどう?」


 

   はっと顔をあげると、そのままの姿勢で渋沢くんが尋ねてきた。
   画面には、の打った文章の下に、新しい文章が打ち込まれていた。
   それはまさにのいいたいことがきれいに整頓されていて、とてもしっくりくる。
 
   …また助けてもらっちゃたな。
 

   「そう!これだ!ありがとうっ」
   「いえいえ。の論文ならたくさん読んでるし」
   「いっつも最後で詰まるんだよねー…毎回ありがと」
   「いや、こんなことしかできないからな。役に立ててうれしいよ」  


   ふっと笑んだ渋沢くんの表情はとてもやわらかくて、心臓がきゅっとした。
   それに、と彼は続ける。

 
 
   「のことは大体わかるしな」



   コーヒーの味も、紅茶の好みも、疲れたときに右目だけまばたきするのも、
   足をぶらぶらさせているときは考えがまとまらないときだっていうのも、
   本当はこの発表の論文は俺の代わりに引き受けたっていうのも、


   全部、知ってる。



   「……っ」

 
 
   いつものように笑っているはずなのに、瞳がとても真剣で。
   背中に感じる彼の体温が、近づいた気配がして。
   耳元でもう一度、彼が言葉を発したらもう死んじゃうんじゃないかって思う。



   「はさ、単純接触の要因って知ってる?」
 


   知っている。
   雑誌のコラムに載っているような心理学だが、立派に解明された論文まで読んだ。
 
   だが急になんでそんなこというのかわからなくて、は首を傾げながら答える。
   少し体をずらして、渋沢くんの方を向いた。思ったより、距離が広がって、内心息を吐く。



   「好意の返報性の、実験のひとつ」


 
   好意を示されるとその相手に好意を返すようになるという、好意の返報性。
   会う回数が多くなるほど、好意も比例して上がることが心理実験で証明された。

   相手に好意を伝える、もしくはアプローチをするために相手と接触する回数を増やすことで
   この単純接触の要因が働き、相手の好感を得やすくなるとも考えられている。

   条件が悪いからって諦めるのではなく、好意を示していれば
   相手にも好意を持ってもらえるという恋する人間にはとても嬉しいものだ。

   そう、相手がどんなに有名人だろうと、人気者だろうと、美人だろうと。


 
   まるで少女漫画の大逆転のような出来事が現実で起こりうるという、心理。



 
   「そう。逃げなければ、いつか必ず努力は報われる」
 



   サッカーと同じだな、と微笑む渋沢くんの笑顔は穏やかだけれど、
   瞳はずっとを映していて。恥ずかしくてちゃんと目を合わせることができない。

   …あぁ、こんなの、心理学の基本じゃないの、なんてわかりやすいの私!


 
   「…渋沢くんがそんな論文読んでるなんて、意外」
   「そういうのは、よくわからなくてな」
   「藁にもすがる、って感じ?」
   「少しでも可能性をあげたいんだ。たとえ、難しいとしても」



   俺は、諦められないから。

   報われたいけれど、無理強いはしたくない。自分の立場もわかっている。
   だからこそ、自分から手に入れたいとこんなにも心が望むならば、確実にしたくて。



   「…そんなに好き、な、人、いたんだね」 
 
 
 
   が絞り出した言葉は、自分の心に傷をつけた。

   表情に出さないようにするだけで、精一杯だったのは自分がよくわかっている。
   だから、こういうときこそ笑うのがいいんだ。
   無表情や視線を逸らすのは、本心をいえない証になってしまうから。 
   心理学なんて本当にやっかいだ。相手が知ってると、こんなにも気を使わなきゃいけない。



   だから、笑え、私。



   顔をあげて、渋沢くんの視線をきちんと受け止める。
   跳ねる心臓を、どうにかおさえて。胸から喉まできゅーって痛むのを、笑うことで忘れる。



   笑え。




   「単純接触の要因、試したの?」

  


   確か、アプローチの方法は工夫が必要って書いてあった。
 

  
   「最初は、控えめな挨拶やちょっとした会話で信頼感をつくることに徹する」
   「そうそう」
   「それで、好意が高まってきたところで、」



   途中で止まった言葉の代わりに、渋沢くんの手が、の頬に添えられる。
   大きくて、硬い手のひらが、頬を包む。
   撫でられるように動いたそれに、思わず肩がびくりと震えた。
 
 


   「アプローチを具体的にしていくようにする」




   手のひらから、熱が伝わる。
   視線も、そこから向けられている心も、熱い。

   ちょっと、待って。

   動揺して、頭がうまく働かない。
   渋沢くんの熱が、の思考回路を溶かしていく。



 
   「…ずっと、だけにしていたんだ」



 
   真剣で、熱っぽい視線にとらえられて、動けない。
   ただ、手のひらから、視線から、渋沢くんのすべてから注がれる熱が
   さっきの話のすべてを物語っていた。
 
   どうして。
   どうして、気づかなかったのだろう。

   おんなじことを自分もしていたというのに。



   「前に、が熱心に読んでいるのをみかけて、興味を持ったんだ」
 


   藁にもすがりたいのは私のほうだから。



   「同時に、不安になって」


 
   不安?
   スポットライトの下で生きていく人が、何をいうの。
   嫌いになる人がいたらみてみたいっていうくらいの、あなたが。


 
   「は、誰に試そうとしていたんだ?」



   あぁ、もう。
   そんな目でみつめないで。
   その大きな手のひらで私に触らないで。

   もう…嘘、つけないじゃないの。
 
 
 
   「…渋沢、くん」



   本当に小さな声でつぶやいた言葉に、頬を撫でる手のひらがぴくりと動いた。
   そしてそれはそのまま後頭部に回り、もう片方の腕が背中に回る。

   ぎゅっと、抱きしめられた。



   「………っ」
   「じ、自分で聞いといて、返事しないなんて、やめて、よ」
   「…嬉しい」
   「……私も、嬉しいよ」



   もう顔もみえないから、無理に笑う必要なんてないのに、ずっと焦がれていたぬくもりと
   あまりに嬉しそうな渋沢くんの笑顔に、赤くなりながらも、思わず笑みがこぼれた。




   「好きだよ、



 
   甘く、掠れた声。

   何度も呼ばれる名前が、強くなる力が、夢じゃないって証明している。




   ……どうやら心理学も、ばかにできないみたい。