意味を持たず生まれてくる人間も

   人形になればただ微笑むだけでも充分なのです。

   かわいい、かわいい、愛玩となればいいだけ。













      過ちを育む言葉














   日も短くなり、気付けば夕方になっていた。

   帳簿の確認をし終わった一馬は、大きく伸びをして息を吐く。

   随分長いこと確認をしていたようで、首を回すと痛々しいほど鈍い音が鳴った。




   「まぁえらく凝ってはりますなぁ、揉んであげましょか」




   艶めいた声に驚いて一馬は肩をびくりと震わせた。

   頬を染め、顔を上げる。同時に、その表情は一転呆れたものになった。



   「・・・英士かよ」
  
   「驚いた?」



   菫姐さんの真似なんだ、と一馬から借りていた本を手渡しながら
 
   くすくすと楽しげに英士は笑った。

   笑うたびにしゃらん、とかんざしが揺れる。英士は芸妓の姿だった。


 
   一馬は眼鏡を外して、英士と自分のお茶を入れる。
 
   机に置いた、仕事のときだけにかける眼鏡は埃で汚れていた。


   

   「珍しいな、英士がこの店に来るの」

   「読み終わったから、早く返したくて」
       

 

   それに、と英士は加える。
  
   紫煙を揺らすような唇の動かし方。

   紛うことなく男だとわかっていても、それは色っぽくみえた。

   


   「今はちょうど、おじさんもおばさんもいないようだし」




   歴史や体面を気にする老舗の呉服屋に、友人とはいえ芸妓が

   やってくることに両親は顔をしかめる。
 
   友達であることさえ禁じられた頃さえあった。 
   
   しかしいくら禁じられようが、罵られようが、一馬は友人を

   裏切るような想いを抱くことは一度もなかった。

   幾夜も共に唇を噛み締め、嗚咽を漏らした。
  
   自由などない夜の蝶へと成長していく友人が負う傷は

   一馬の痛みなど比べ物にもならないであろう。




   それでも、英士は笑うから。




   不幸など許さない、幸せを手放すなんて許さないと

   俺を慈しんでくれる。

   無力な自分を恨んでも、憎んでも、自分と彼は友人だと
  
   よぼよぼの皺だらけになっても胸を張っていえる自信がある。 
 
   だから、俺も英士の幸せを願いたい。

   せめて月が隠れている間は英士に太陽の下で笑っていてほしい。



  
   「面白かっただろ、これ」

   「うん。よくこんな古い本持っていたね」

   「祖父さんのなんだ。俺のお気に入り」
  



   ちょっと待ってろ、と一馬は立ち上がって自室へ立ち去る。


   一馬の大好きだった祖父は、もちろんこの店の主人であったが

   穏やかで、優しく、慈愛に満ちていた。

   体面や地位をみることなく、善悪をはっきりとわける正義感が
  
   一馬は好きだった。

   本当の正義は何か、本当の優しさは何か。よく祖母は一馬に問うた。

   幼すぎた自分にはわからなかったが、それは祖父のような心だと

   一馬は幼心から思っていた。

   
   本を二冊腕に抱いて戻ってくる途中、英士の声が急かした。

 


   「一馬、お客様」



   
   一馬は慌てて、店へ戻った。

   そこには、穏やかな笑顔の異人の客がいた。

   金色の髪に冬の曇り空のような灰色の瞳の美しい青年。   

   高級な西洋の服に身を包み、ステッキといわれる杖を持っていた。


   
  
   「どうぞ、こちらへ」




   一馬は英士に自室で待つようにいい、客を店へあげた。

   今夜は両親は外に泊まると聞いている。ちょうどよかった。


   客は、英士の艶やかな後ろ姿を見送っていた。




   「彼女は」




   流暢な日本語に、一馬は少し目を開いた。
  
   どうやら、相当の金持ちのようだ。指輪や胸飾りだけでも

   家が買えてしまいそうなほど高価で、輝いている。

   それに日本の言葉を覚えるほど時間と暇を持て余して

   来日しているということだ。




   「私の友人です」

   「ほう・・・芸者さん、ですよね」

   「・・・えぇ」

   「この辺の置屋というと、夜桜蝶屋ですか」


   
   
   最後の言葉は一馬に問いかけるというより、確認するかのように

   客は呟いた。  
 
   厭な予感が、した。


   客の呉服を見立てつつ、一馬は視界がくらむような動悸と
   
   背中を流れる冷や汗の理由が杞憂であって欲しいと願った。


   



   「何と美しい徒花でしょう・・・」






   客は再び英士の消えた方を向いてそう呟くと、呉服を選び始めた。





   

   半刻ほどかけ、客は三着の服を選び買った。

   一馬の見立てを褒め称え、チップですよと現金までねじ込まれた。

       
   すると、夜桜蝶屋の主人が店に入ってきた。
 
   


   「真田さん、八重が来てないかい」
   

   

   あと半刻で座敷なのに、店に戻ってこないんだよ。

   そう主人は呆れた表情で笑った。
  
  
  

   「ほう・・・八重というのですか」




   客がとても楽しげに微笑んだ。

   一馬の動悸は、また激しくなった。

   やめてくれ。まさか。



 
   「えぇ、うちの店の看板ですよ。まだ子供ですがね」

   「そうですか。今夜、そちらに行くつもりだったのですよ」

   「ご予約いただいた方ですね。では今からでも、」




   主人が促すと、客は首を振った。

   ゆっくりと、優雅に。

   薄い唇が愉しそうに言葉を紡ぐ。





   「その必要はなくなってしまいました」

   
  
 

   視界が歪む。

   身体中から体温が逃げていく。

   震え、力が入らない。

   
   に、結人に、知らせなきゃ。

      






   「五千圓で、八重を僕にいただけませんか」






   
  
   主人は、迷うことなく首を縦に振った。

   
 

  






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