花、蝶、鳥、山河。

   色鮮やかな世界。

   を取り巻くすべては艶やかで、一等美しいものばかりだった。  
   
   その小さな手がつくりだす、幻想の世界。
  
   称賛も栄誉も得て、世界は自分が描くような美しいものだけで

   できていると思っていた。 




   「今からお前はここで生きるんだよ、小娘」




   そう、いわれるまでは。

   遊女として生きる以外の道が、閉ざされるまでは。




   夜桜蝶屋は昔『七種楼』という名の遊廓であった。
  

   「秋の野に咲き立つ花を指折り かき数ふれば七種の花

    萩の花 尾花 葛花 撫子の花 女郎花 また藤袴 朝貌の花」

 
   と先の詩人が詠んだ歌集の通り、秋の七草に例えて人気の遊女を格付けした。

   そんな七種楼に六歳のときに売られたは、次期楼主と歳が同じであったため

   生活から暇つぶしまですべての世話を任された。
 
   彼の名は、潤慶といった。

  
   は毎日歌を唄い、楽器を弾き、化粧を施し彼の目も心も楽しませた。

   その様子をみた客から指名が入り、表立って名を出していたわけでもなかったが

   は影の看板遊女として噂になった。噂が噂を呼び、その評判は知れ渡る。

   


   「一夜を過ごせばすべてを忘れられる、まさに極楽を見せる者」




   客はそうを称えた。そしてついた名が『忘れ草』である。

   心の憂さを忘れさせるとして、身に帯びたり、庭に植える赤みがかった橙の花。


   忘れ草は七草を含めた他の遊女を圧倒した人気で、幼き歳など関せず

   その極楽に人々は酔いしれた。

   表舞台には決して現れないが、夜の花として不動の地位を得た。   






   「ねぇ、は外へ出たい?」






   ある日、潤慶はいった。

   忘れ草以外の私を知る者などいない世界で、と呼ぶのは彼だけだった。
 
   日本人ではない彼を、影で蔑む人もいたが、は潤慶が大事であった。
 
   本当のと会話し接してくれる彼を、ただの潤慶という人物としてみていた。

   の世界の中心は、潤慶だった。

   目の前がどんなに滑稽で醜いもので満ち溢れていても、潤慶はの手だけは

   決して放さないであろうと、思っていた。



   ゆるゆると堕ちていく日々。


     
   闇は脚を絡めとり、身動きさえできずに足掻くこともやめていく遊女たち。
 
   狂って死ぬ人も、自分を犯そうとする人もいた。

   



   「自由になりたい?」





   そう、潤慶はよくに訊ねた。

   肯定したところで逃げられるような檻ではないことは、お互いわかっていた。  

   
   はすでに己の脚で動くことさえできぬほど、闇に捕らわれていたのだから。



   
   そんな潤慶との会話のほとんどは、生き別れた従兄弟のことであった。

   歳が一つ下の、男の子。

   異国の生まれの潤慶と違い、彼は父親が日本人だという。

      



   「僕の国にも徴兵があるんだ。だから、逃がしてあげたかった」



  

   年端もいかぬ男児を幼き頃から調教しようと、政府がやってくるのだと

   潤慶はいった。隠れていてもそのうち、すべてを壊してでも

   彼らは男児を連れて行くだろうと。


   おぞましい光景が想像できたは、彼に問うた。   




   「ユンは」

  


   僕は平気さ、と彼は笑った。

   でもヨンサは笑って、生きて欲しかったんだ。

   ううん、どんな状況であろうと、生きているだけでよかった。   

   


   「だから、売ったの」

   「・・・それしかなかった」



  
   そのうち売られることになるだろうとわかっていながら、

   彼を日本へと引き離し、両親と暮らさせた。

   貧しいその家庭で彼がその後どうなるか、安易に想像ができていたのに。

   金に困っていたヨンサの両親が、なぜ彼を欲したか知っていたのに。       
  
   


   「僕が売ったのと同じなんだ」



   
   潤慶は悲しげに瞳を曇らせた。

   今思うと、年端もいかぬ子供に出来ることなど何一つあるはずもなく
   
   彼が自負する必要などなかった。誰が彼を責められようか。
 
   行き着く未来を知っていても、彼にそれを変える術などなかったのだから。

   ヨンサは痛ましいほどに泣いていたという。なんで、と何度も繰り返して。

   その涙を見て、人買いに連れて行かれていくその姿を見て、ユンの小さな手には

   すり抜けていく光への痛みだけが残った。




   「ユン・・・」




   ちがうよ。ユンのせいじゃ、ない。
 
   そう紡ごうとするが言葉はいつも音にならずに消えてしまう。
 
   彼は慰めを欲しているのじゃないことを、は悟っていた。


   ヨンサという従兄弟の話をするときの潤慶はいつも苦しげで、

   仮面のように微笑む普段とは違って、その顔は泣きそうに歪む。
  
   でもヨンサを誰より大切に思っているはよくわかった。

   ヨンサの話をしているときのユンはとても温かい眼差しで、

   その声音は希望を語るかのように幸せそうであった。


   

   「忘れ草、客よ」

   「・・・はい」




   潤慶の部屋の襖が叩かれ、はいつも引き離されるように

   店へと連れて行かれた。

   本当はずっとそばにいて、支えてあげたかった。


     
  








   店じまいとなり、遊女たちが各々部屋に戻って行くとき

   同じように潤慶の部屋へと戻ろうとしていたは、いつもなら

   とうに寝ているはずの女将の部屋から漏れる声に立ち止まった。
   


   「城のような家が建つ値だよ、あんた」

   「そんなにかい」

   「異国の人は、羽振りがいいからねぇ」

   「さすがだな」   

   

   身請けの話なのはわかった。またか、と思って去っていこうと

   したの脚をとめたのは、そのあと続いた名。

   七草の誰かではなかった。

   



 
   「あぁ。なんとしても、身に帯びたいっていっていたよ」






   そう、孤高の『葛花』でも、野に揺れる純潔の『撫子』でもなく。
  









   「忘れ草、を」









   は凍りついた。

   潤慶から離れて、欲にまみれた男の愛を受け続ける・・・。

   この身体が朽ちるまで。この心が何も感じなくなるまで。

   若く瑞々しい白磁の肌を、隅々まで愛撫して。

   黄昏か夜明けかも判断できぬくらいずっと、

   月が太陽にみえるようになるほど、

   その狂愛に蝕まれていくのだ。ただの愛玩人形として。

   想像するだけでも吐きたくなる、死にたいくらいの恐怖だった。

      

  

   「、おかえり」    

   

  

   縋るように潤慶のもとへと帰った。

   夜の闇で青白いの顔は目立たず、潤慶はいつものようにを向かえた。




   「もう寝るから、何か唄ってくれない」




   布団をまくり、自分の隣に来るよう催促する潤慶の枕元にある花に
  
   は目を奪われる。


  
   「それ・・・」

   「あぁ、彼岸花。僕の国では相思華っていうけど」

   「また、お客さんにもらったの」

   「うん。・・・ヨンサの、大好きな花」

   

   花と葉が同時に出ることはない為、葉は花を花は葉を思うといわれる。

   同時に、日本では忌み嫌われる花。

   潤慶は愛しげに花を見つめ、唄うように呟いた。

   










   「人を、殺せる花なんだよ」  
   
 
 






   

   あぁ、なんて私は愚かなのだろう。

   私は身請け前にもう一度来たその客を相手しているときに

   その話を、思い出してしまった。  
 
   知らなかったら、こんなこと思いつきもしなかったのに。


   



   「ぐっ・・・!」

   



   
   『忘れ草』の私。

   現のことをすべて忘れさせてくれると、賞賛された娘。

   皆、何も知らないくせに。 
   
     
   嘔吐し、身体の自由を奪われ、焦点があわずにもがく客を
 
   はただ見下ろしていた。



   そばに落ちているのは、赤い花。

 


  
   「忘れてね、私のこと・・・」




    
   あなたが現を忘れるなら、現を生きる私のことも。

   
   雲の隙間から出た月が、の微笑を照らした。

   今夜も一時の夢をみに、夜の花を楽しみにきた客と遊女の声が響く。
   
   交じり合う欲と欲。

   苦しみ床に転がる、欲にまみれた一人の男客。    


  
   夢は金で買えないわ、とは月へと呟いた。

  

   ・・・あのときの私は必死だったのだ。
   
   この男客にこのままつれていかれるのが、恐ろしくて。


   



   「、ちょっといい」 

   「っ」
 

   


   まさか、そこに潤慶がくるなんて思いもしなかった。   
 
   先のことなど考えてもいなかったから。




   「・・・、これ」

   「・・・・・ゆ、・・・っ・・・・・」
 



   しかし、潤慶はとがめなかった。
 
   むしろこうなることをわかっていたかのように、微笑んだ。

   


   「ユ、ン・・・わた・・・し・・・・・・」   



 
   生きたかっただけなの。

   ユンに必要とされることが何より嬉しかったの。 

   どうせ飼い殺されるなら、ユンがよかったの。

   あなたのために生きて、あなたのために死にたいの。

   こんなちっぽけな命だけれど、あなたは大切にしてくれたから。

  
 


  
   「おいで、






   潤慶はなにもきかずに、を自室へと隠した。








   「自由にしてあげる」











   
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