俺が俺になった日は忘れもしないあのとき。
と出会わなければ俺はきっと、壊れていた。
孤独の闇にただ独り取り残されて。
遠すぎた闇
春が近づいてきたはずだった。
なのに、俺の周りはとても冷たかった。
ずっと暮らしてきた従兄弟と引き離され、そしてずっと住んでいた
恋しい地すら奪われた。
雪が降ると誰かが言っていたのが耳に入った。
嘘だと思いつつも空を見上げると、灰色が近づいてきていた。
寒い日だった。
「・・・英士、お別れよ」
子供は英士だけだった家庭。幼心ながら、暮らしに不自由しているとも
思えなかった。普通に暮らしていたはずだった。
突然きた別れ。身売り商が英士を値踏みするような目で見ていたのを
今でも鮮明に覚えている。あれが始まりだった。
売られた先は何故か芸者置屋だった。
当時まだ七歳だった英士は今以上に驚くほど白い肌をしていた。
黒髪が映えるその綺麗な肌を見てか、芸者置屋の旦那は
笑顔を浮かべた。汚い大人の欲を、英士は初めて垣間見た。
ついたばかりといえどすぐに半玉として、作法を教えられた。
しかし周りにいるのは女の芸者ばかりで、男娼の姿は見えなかった。
その時点で、おかしいと、思わなければいけなかったのだ。
この芸者置屋には男娼もいるにも関わらず、何故
自分の傍にはいつも女の娼妓ばかりがいたのか。
真意を知るには、英士はまだ幼すぎた。
平凡な暮らしをしていたはずの自分には、わかるはずもなかったのだ。
しかし、数ヶ月が経ったときに学習してきた英士は勘付いた。
何かがおかしい。周囲の笑みの意味に気付いたきっかけは
切れ長の黒目の縁に紅を塗られるようになったから、だった。
紅を塗っては嬉しそうに目を細められたのは・・・。
「あらきれいね、英士。いいえ八重の姫」
「や、え?」
「そう、八重桜の八重。貴方はとても綺麗よ。私だけのお人形」
その頃の英士は、店の一番上である桜という位の娼妓の
小間使いのようなことをしていた。
しなやかな長い黒髪は黒雲母をそのまま絹に塗りつけたように
とても美しいものだったのを、覚えている。
この国では珍しい、翡翠のような瞳をしていた。
ずっと彼女の傍につかされていた。
「大好きよ、八重。世界はこんなに汚いのに、貴方はとても綺麗」
呪文のように、彼女はそう呟いては
英士の隅々を磨き、美しく着飾った。
まるで、母のようだった。
今思えば、どれほど浅はかな想いだったのだろうと自嘲する。
温かな場所ではなかったから、仕方なかったのかもしれない。
客の取り合いや娼妓同士のいさかいなど当たり前で、
半玉の英士はこき使われた。
本来ならば、畑でもやっていればいいはずの自分が
娼妓たちの化粧道具や菓子を大量に買いに行くのは
何故だか酷く、滑稽に感じていた。
そして、ようやく、気付いたのだ。
自分が求められていることを、立場を。
「さぁ、おいで」
血の気が引いた。
気を遠のかせることしか出来ない自分が非力すぎて涙が溢れた。
嗚咽が漏れる。誰も助けは来ない。
じりじりと近寄ってくる彼女が、初めて恐ろしい生き物だと理解した。
俺は、男なのに。
身売りの意味を初めて理解した。
ねぇ、母さん、父さん・・・どうして?どうして俺なの?
潤慶はいない。きっと彼は普通に男として暮らしているんだろう。
羨ましい。妬ましい。あぁ、俺はこんなに醜かったのか。
そんなに俺は要らなかったの?
苦しい。彼女のつけた香の匂いに噎せ返りそうだった。
吐き気がするのに吐けなかった。浅い呼吸を繰り返すだけ。
手足は痺れて使い物にならない。
美しいと思っていた彼女の笑みが、身売り商と被って見えた。
「厭、だよ。こないで・・・!」
「何言ってるの。貴方は私の可愛い人形」
芸者置屋にくる客のような、欲に満ちた目をしていた。
綺麗だった翡翠はにごっていた。
性欲とはまた違う彼女の欲望は、ただの飢えにも感じた。
頭につけている桜のかんざしを取り、彼女は英士の手首を掴んだ。
止め具をなくした黒髪が宙にしなやかに舞っていた。
背を向けさせられた英士の服が脱がされる。
彼女自身が好んで着させた、桜の模様が入った女の着物が
散っていく儚い川沿いの桜のようにみえた。
彼女の手つきはとても、鮮やかだった。
「・・・この雪のような肌から、どのような紅がでるのかしらね」
いつものように透き通る声じゃなかった。
べたつきまとわりつく、厭な声。
言葉の意味がわからなかった。
ただ、目の前の光景が夢だと信じたかった。
狂喜に満ちた彼女の瞳も、
自分の肌から流れる熱くて独特の香りの液体も、
かんざしからしたたるそれを愛しそうに舐める彼女も、
ぜんぶ、現実じゃなければいいのに。
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